行楽 ・ 観光

薬師寺見学&参拝 2015(H27)年11月10日

見学順路   @駐車場から中門へ    A中門から鐘楼   玄奘伽藍と興楽門前 

 駐車場から中門へ   

駐車場から両側が松並木の石畳を進むと右に薬師寺を守護する休ケ岡八幡宮があります。

寛平年間(889〜898)に大分県宇佐から現在地に勧請[かんじょう]されました。
現在の社殿は桃山時代の慶長元年(1596年)、豊臣秀頼の寄進による建物です。
社殿は全体に西面し、本殿・脇殿とも小高い石積みの壇上に建っています。

社殿の西、前庭の西側にある座小屋は修復が多いものの、社殿とほぼ同じ時期の建物で、中世に始まった宮座が受け継がれている貴重な歴史文化遺産とされています。


休ヶ岡八幡宮の境内に、薬師寺はこちらの案内板にしたがって鳥居を通らずに左方向に出ると孫太郎稲荷神社がありました。


乾川に架かる橋と向こうに南門


市道を挟んで南門。南門の正面入り口は閉じられており、左側から入ります。
青塔が見えました。


上記写真の左側、橋を渡った左側に石標


南門を入ると前に中門

中門は昭和59年(1984)に西塔に引き続き復興されました。
その年、10月8日の落慶法要の時にはお扉だけを開きました。
そして、その後昭和天皇さまが奈良で開催された「わかくさ国体」の開会式(10月10日)にお出ましになられ、その翌日に初通りを願える事が出来ました。
また、平成3年(1991)には二天王像も復元されました。


中門から左手方向に手水舎
その後方にテントで覆われているのが東塔。残念なが修理工事中で、一番見たいと思っていた東塔を見ることが出来ませんでした。


手水舎を少し奥に平木大明神、弁財天、弁財天の後方に若宮社があります。



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白 鳳 伽 藍

中門から興楽門   

中門正面に線香を立てここから金堂を拝します。

金堂
 金堂は享禄元年(1528)この地域の豪族の戦火に巻きこまれ、西塔などと共に焼け落ちてしまいました。その後、豊臣家が金堂の仮堂を建て、その後本格的な金堂の再建に取りかかる筈でしたが、豊臣家滅亡などの事情で400年近く仮堂のままの状態でした。

 金堂の再建は歴代の薬師寺住職にとって悲願中の悲願でした。
昭和42年(1967)高田好胤師が晋山し、百万巻写経勧進による金堂再建を提唱、全国に写経勧進に歩かれ、その結果昭和46年(1971)金堂の起工式を行い、そして昭和51年(1976)4月に白鳳時代様式の本格的な金堂として復興しました。

薬師寺ホームページより




西  塔
 西塔は昭和56年(1981)に復興されました。
東塔と比較すると、まずその鮮やかな色に目を奪われますが、またそれは奈良を表わす色使いでもあると言えます。
塔の連子窓[れんじまど]に使われている色を「青[あお]」色、扉や柱に使われている色を「丹[に]」色と呼び、万葉集の一節に
あおによし ならのみやこは さくはなの におうがごとく いまさかりなり
と歌われている事からも当時の平城京の華やかさを表現する意味もあったのではないかと思われます。
「青丹良し」とは奈良の枕ことばを意味するのです。色はもちろん連子窓の有無や屋根の反り、基檀の高さ等、東塔との違いが多く見られまが、(例えば、東塔の連子窓は、度重なる修復時に白壁に変えられています。)まさにその違いこそが1300年という歴史の流れを表しているのです。

薬師寺ホームページより



昭和51年に金堂、同56年に西塔が落慶し、以後中門・回廊の再建工事と平行して大講堂の復元設計に着手。
基本設計は西岡常一棟梁で金堂以来一貫した裳階付の薬師寺独自の様式です。
大講堂は正面41m、奥行20m、高さは約17mあり伽藍最大の建造物です。大講堂が金堂より大きいのは古代伽藍の通則で、これは南都仏教が教学を重んじ講堂に大勢の学僧が参集して経典を講讃したためです。
特に薬師寺では平安時代に入ると南京三会[なんきょうさんえ]の一つ最勝会[さいしょうえ]の道場となって、勅使[ちょくし]を迎えた法会が毎年盛大に営まれました。
最勝会では持統天皇が持統6年(692)に天武天皇の菩提を弔うために奉安した高さ3丈(8,9m)、広さ2丈1尺8寸(6,5m)の阿弥陀浄土を写した大繍仏像が正面に祀られました。
金堂の本尊薬師如来像が持統天皇の病気平癒の願いを込め天武天皇が発願されたのはよく知られるところで、いわば薬師寺白鳳伽藍は、天武・持統二代の天皇の夫婦愛が、それぞれ金堂と大講堂にこめられているのです。
大講堂は現在の建築基準法に合わせ現代の技法を取り入れながら伝統工法による復元建築で、最大級の建物です。薬師寺白鳳伽藍の雄大さを象徴しています。



鐘楼(しょうろう
古るそうですが詳細不明
鐘楼後方の建屋は東僧坊で講和が行われていました。
聞きたかったのですが終わり寸前でした。


今日の北側の出口は聚賓館の西側でした。
写真にもあるように食堂の工事中のため興楽門は閉めているのでしょうか。


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興楽門前から玄奘三蔵院伽藍へ   

興楽門の前に県道122号線が通っているので、薬師寺の境内が二分されていて少し残念な気がします。

道路を横断し玄奘三蔵院伽藍の前に来ました。





玄奘三蔵院伽藍

玄奘三蔵[げんじょうさんぞう](600または602〜664)は、『西遊記』で有名な中国唐時代の歴史上の僧侶です。
17年間にわたりインドでの勉学を終え、帰国後は持ち帰られた経典の翻訳に専念、その数1335巻に及びます。
玄奘三蔵の最も究めたかった事は、「瑜伽唯識[ゆがゆいしき]」の教えでした。その教えの流れを継承している宗派が法相宗[ほっそうしゅう]です。
現在、薬師寺と興福寺が法相宗の大本山で、玄奘三蔵は法相宗の鼻祖に当たります。
昭和17年(1942)に南京に駐屯していた日本軍が土中から玄奘三蔵のご頂骨を発見しました。
その一部が昭和19年(1944)に全日本仏教会にも分骨されましたが、戦時中でもあり、埼玉県岩槻市の慈恩寺に奉安され、その後ご頂骨を祀る石塔が建てられました。
薬師寺も玄奘三蔵と深いご縁のある事から、遺徳を顕彰するため全日本仏教会より昭和56年(1981)にご分骨を拝受し、平成3年(1991)玄奘三蔵院伽藍を建立しました。
平成12年(2000)12月31日に平山郁夫画伯が入魂された、玄奘三蔵求法の旅をたどる「大唐西域壁画」は、玄奘塔北側にある大唐西域壁画殿にお祀りしています。

薬師寺ホームページより



瓦を乗せた塀に松の木、和風の原点という感じて良いです。


伽藍の西回廊に拝観受付があります

やはり礼門は潜れません。


礼門から玄奘塔


玄奘塔

拝観受付から玄奘三蔵院伽藍の中に入りました

玄奘三蔵院伽藍の中央にある玄奘塔には玄奘三蔵の御頂骨がお祀りされております


伽藍の東側から玄奘塔前の庭全景


色づいた木が薬師寺で初めてあったので1枚撮りました。
薬師寺には梅の木が多く植えられています。花の時期が楽しみです。



玄奘三蔵院伽藍の大唐西域壁画殿見学後、近鉄西ノ京駅から唐招提寺へ、再度薬師寺まで戻る1時間弱のまでまほろば散策を楽しみました。
白鳳伽藍の東側を見ていなかったので東側を歩き駐車場へ戻ります。


東院堂まで戻って来ました。

東院堂は、養老年間(717〜724)に吉備内親王[きびないしんのう]が元明天皇[げんめいてんのう]の冥福を祈り、建立されました。
奈良時代は現在地の東側に建てられていましたが、天禄4年(973)の火災で焼失しました。 現在の建物は正面7間、側面4間の入母屋造本瓦葺で、弘安8年(1285)に南向きで再建されましたが、享保18年(1733)に西向きに変えられました。
高い基檀の上に建つのは、水害・湿気を避けるためであり、鎌倉時代後期の和様仏堂の好例です。
堂内には、白鳳仏を代表する国宝 聖観世音菩薩が安置され、その四方は鎌倉時代の四天王像が守護しています。



回廊から東院堂



回廊は、藤原京薬師寺では単廊であったとされていますが、平城京薬師寺では複廊と呼ばれる2重構造になっているのが
     特徴です。 (白鳳伽藍の回廊)


複廊なので伽藍外側も石畳が続いています。



南門に戻って来ました。AM10:35〜PM1:15 2時間40分

最後の一枚


奈良市の薬師寺は2015年(平成27年)3月20日、中世に失われた主要施設のひとつ「食堂(じきどう)」(8世紀前半)を3月に起工式を行い4月から着工。
2017年(平成29年)5月月に完成を目指すと発表した。

東塔については、2009年(21年)より解体修理に着手しており、現在は覆屋に覆われている。
修理の概要として、瓦、木部、基壇などを全て解体し、地下の発掘調査が行われます。
その後、傷んだ部分の修繕を行いながら再び組み上げ、2019年(平成31)年の春に修理が完了する予定です。


写真地図




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