高野山(金剛峯寺参拝)開創1200年

2015年4月12日(日)

金 剛 峯 寺

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11時到着

高野山のPは満杯、高野町の役場駐車場へ駐車
歩いて金剛峯寺へ着きました。



金剛峯寺の石表
新しい 最近たてられたのかなと

総本山金剛峯寺という場合、金剛峯寺だけではなく高野山全体を指し、「一山境内地」と称し、高野山の至る所がお寺の境内地であり、高野山全体がお寺ということになるようです。  

 東側入口門へ

 

手桶 何で並んでいるのかな、意味あるのかなと思いながら ?


門を潜り本殿へ  
  

写真手前から 小玄関 ・ 大玄関 ・ 主殿が並んでいます  


右 小玄関 ・左 大玄関

鐘楼の反対側に入り口が見えます。ここは金剛峯寺の表玄関にあたるところで大玄関といいます。この門も、先の正門と同じく天皇・皇族や高野山重職だけが出入りされました。 小玄関は、高野山では上綱(じょうこう)職の方々がもっぱら使用されます。現在は一般参詣入口となっています。昔一般の僧侶は、裏口より出入りしていたということです。  


大玄関で誰かのお迎えでしょうか  


主殿全景  


多くの参詣者が見えます。

これを見て私は今回参観諦めました。次回は古刹な庭園などぜひ見てみたいと思います
。    


鐘楼 しょうろう

門をくぐって右手に鐘楼、金剛峯寺の前身であります青巌寺の鐘楼で、その構造形式から万延元年(1860年)に大火(たいか)で類焼後、大主殿などの建物と共に鐘楼も元治元年(1864年)に再建されたものと考えられます。 桁行・三間、梁行・二間、袴腰付入母屋造り(はかまごしつきいりもやづくり)の形式で、県指定文化財となっています。  


東方向から鐘楼と主殿  


六時の鐘    


伽藍の入り口の高い石垣にある鐘楼は、福島正則公が父母の追福菩提を祈って、元和4年(1618年)に建立されました。福島候といえば、豊臣秀吉と柴田勝家(かついえ)との戦いで、賤ヶ岳七本槍(しずがたけしちほんやり)といわれた、豊臣家きっての勇将でした。寛永7年(1640年)に、正則の子である正利によって再鋳されましたが、その鐘銘がかなまじり文であることで有名です。現在でも午前6時より午後10時まで、偶数時に時刻を知らせています。  


蛇腹路(じゃばらみち)

伽藍入り口から東塔東塔東側付近までのびる小道を「蛇腹路」と呼びます。高野山はお大師さまが「東西に龍の臥せるがごとく」と形容され、壇場伽藍を頭として現在の蓮花院(れんげいん)までを龍が臥している形に例えたのでした。そして、ちょうどこの小道が龍のお腹付近にあたることから蛇腹路と呼ばれるようになりました  


蛇腹路   


蛇腹路を200m程進むと根本大塔が見えてきました。  


  

壇 場 伽 藍(だんじょうがらん)


お大師さまが高野山をご開創された折、真っ先に整備へ着手した場所です。お大師さまが実際に土を踏みしめ、密教思想に基づく塔・堂の建立に心血を注がれました。その壇上伽藍は、〈胎蔵曼荼羅〉の世界を表しているといわれています。高野山全体を金剛峯寺という寺院と見たとき、その境内地の核にあたる場所で、古来より大師入定の地である奥の院と並んで信仰の中心として大切にされてきました


   地図上の図・名称クリックで写真にジャンプします

壇上伽藍地図


東塔 三昧堂 大会堂 愛染堂 根本大塔 金堂"" 御影堂 三鈷の松 准胝堂と孔雀堂 西塔 鐘楼 御社 ・山王院 六角経蔵 中門 蛇腹道

東塔 ・ 大会堂 ・ 根本大塔 

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東塔

大治2年(1127年)、白河院の御願によって醍醐三宝院勝覚権僧正(だいごさんぼういんしょうかくごんのそうじょう)によって創建されました。当初は上皇等身の尊勝仏頂尊(そんしょうぶっちょうそん)が本尊として奉安され、不動明王、降三世(ごうさんぜ)明王の二体も脇侍(きょうじ)としてまつられました。天保14年(1843年)に焼失してからしばらくの間再建されず、140年たった昭和59年(1984年)にようやく再建されました。   


東塔前から金堂  

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東塔と大会堂の間にひっそりたたずんでいる感じの三昧堂(さんまいどう)
済高(さいこう)座主(870年〜942年)が延長7年(929年)に総持院(そうじいん)境内建立されたお堂で、済高師はこのお堂で「理趣三昧」という儀式を執り行っていたため、三昧堂と呼ばれるようになりました。後に壇場へ移され、修造にかかわったのが西行法師だと伝えられています。三昧堂の前の桜は、西行法師手植えの桜として、西行桜と呼ばれています。伝説にはこのお堂を修造した記念に植えられたそうです。現在の建物は文化13年(1816年)の再建です。  

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大会堂(だいえどう)

鳥羽法王の皇女である五辻斎院(ごつじさいいん)内親王というお方が、父帝の追福のため建立されました。もとは別の場所に建立されていたのですが、長日不断談義(ふだんだんぎ)の学堂として壇場に移し、蓮華乗院(れんげじょういん)と称するようになりました。後にこの論議は衰退し、現在では法会執行の際の集会所的役割を担うようになりました。現在の建物は嘉永元年(1848年)に再建された五間四面のお堂   


大会堂の右の道、蓮池へは時間が無く行けませんでした  

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愛染堂(あいぜんどう)

建武元年(1334年)、後醍醐天皇の綸命(りんめい)によって四海静平(しかいせいへい)、玉体安穏(ぎょくたいあんのん)を祈るために建立されました。本尊は愛染明王で、後醍醐天皇の御等身といわれています。昔はこのお堂で不断愛染護摩供(ふだんあいぜんごまく)や長日談義(ちょうじつだんぎ)が行われ、「新学堂」とも呼ばれました。  

  

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写真 右 根本大塔・  中央 御影堂・ 左 金堂  


根本大塔

お大師さま、真然大徳(しんぜんだいとく)と二代を費やして816年から887年ごろに完成したと伝えられます。お大師さまは、この大塔を法界体性塔とも呼ばれ、真言密教の根本道場におけるシンボルとして建立されたので古来、根本大塔(こんぽんだいとう)と呼んでいます。多宝塔様式としては日本最初のものといわれ、本尊は胎蔵大日如来、周りには金剛界の四仏(しぶつ)が取り囲み、16本の柱には堂本印象画伯の筆による十六大菩薩(じゅうろくだいぼさつ)、四隅の壁には密教を伝えた八祖(はっそ)像が描かれ、堂内そのものが立体の曼荼羅(まんだら)として構成されています。 

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金堂

高野山の本堂は、金剛峯寺ではなく、大伽藍にそびえる「金堂」が一山の総本堂になります。高野山の重要行事のほとんどは、この金堂にて執り行われます  高野山御開創当時、お大師さまの手により御社に次いで最初期に建設されたお堂で、講堂と呼ばれていました。平安時代半ばから、高野山の総本堂として重要な役割を果たしてきました。 現在の建物は7度目の再建で、昭和7年(1932年)に完成しました。梁間23.8メートル、桁行30メートル、高さ23.73メートル、入母屋造りですが、関西近代建築の父といわれる武田五一博士の手によって、耐震耐火を考慮した鉄骨鉄筋コンクリート構造で設計、建立されました。 内部の壁画は岡倉天心に師事し日本美術院の発展に貢献した木村武山(ぶざん)画伯の筆によって、「釈迦成道驚覚開示(しゃかじょうどうきょうがくかいじ)の図」や「八供養菩薩像(はっくようぼさつぞう)」が整えられました。本尊の阿?如来(薬師如来、秘仏)は、洋彫刻の写実主義に関心をよせ、江戸時代までの木彫技術に写実主義を取り入れて、木彫を近代化することに貢献された、高村光雲仏師によって造立されました。
 

   


金堂東側に来ました  


高野山ではあちこちで多くのお坊さんに出会います。  


振り返って根本大塔西側から  
 

右 御影堂  左 三鈷の松
バスカイドさん 待ち人来たらず 皆さんどこに消えたのか ?


御 影 堂(みえどう)

もとは、お大師さまの持仏堂として建立されましたが、後に真如親王直筆の「弘法大師御影像」を奉安し、御影堂と名付けられました。桁行15.1メートル、梁間15.1メートルの向背付宝形(ほうぎょう)造りで、堂内外陣にはお大師さまの十大弟子像が掲げられています。このお堂は高野山で最重要の聖域であり、限られた方しか堂内に入ることは許されませんでしたが、近年になって旧暦3月21日に執行される「旧正御影供」の前夜、御逮夜法会(おたいやほうえ)の後に外陣への一般参拝が許されるようになりました。 

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三鈷の松


言い伝えが事実ならば三代目ぐらいの木になるそうです。三葉の葉を探すと縁起物として持ち帰るようです。  
 

次に准胝堂と孔雀堂です両堂はこじんまりとした御堂です 


准胝堂(じゅんていどう)

本尊の准胝観音は、弘法大師が得度の儀式を行う際の本尊として自ら造立されたと伝えられています。この准胝観音は、伽藍が建立された当時、食堂に安置せられていたと伝えられています。その後、天禄4年(973年)頃になって、この堂が建立され、移動されたということです。幾たびも焼失しましたが、現在の堂は明治16年(1883年)に再建されました。なお、このお堂では毎年7月1日に、准胝堂陀羅尼会(じゅんていどうだらにえ)と呼ばれる法会が営まれています。  


障子の一部が透明になっていて中を覗くといういうことのようです。もう少し広く開いていたら良いのにと思いながら覗いてみました。  


孔雀堂(くじゃくどう)

正治元年(1199年)、東寺長者の延杲(えんごう)は、後鳥羽法王の御願によって、神泉苑(しんせんえん)にて祈雨の修法を行い、見事大願を成就されました。その功績により高野山へ建立すべき宣旨を受け、翌年の正治2年には本尊が奉安されました。昭和元年(1926年)、金堂より出火した大火によって焼失しましたが、昭和58年(1983年)には弘法大師御入定1150年御遠忌記念事業として再建されました。本尊の孔雀明王像は快慶作で重要文化財に指定され、現在は霊宝館に収められています。  

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西 塔(さいとう)

お大師さまの伽藍建立計画案である『御図記(ごずき)』に基づき、高野山第二世である真然大徳によって建立されました。お大師さまは、大塔と西塔を、大日如来の密教世界を具体的に表現する「法界体性塔(ほっかいたいしょうとう)」として二基一対として建立する計画をお持ちでした。しかし、諸般の事情により建設が遅れ、お大師さま入定後の仁和2年(886年)に完成に至ったものです。 西塔では、大塔の本尊が胎蔵大日如来であるのに対し、金剛界大日如来と胎蔵界四仏が奉安されています。現在の塔は、天保5年(1834年)に再建された、擬宝珠(ぎぼし)高欄付多宝塔で、高さは27.27メートルです。 ※くわしくは霊宝館「よもやま記」(別ウィンドウ)をご覧ください。 根本大塔 お大師さま、真然大徳(しんぜんだいとく)と二代を費やして816年から887年ごろに完成したと伝えられます。お大師さまは、この大塔を法界体性塔とも呼ばれ、真言密教の根本道場におけるシンボルとして建立されたので古来、根本大塔(こんぽんだいとう)と呼んでいます。多宝塔様式としては日本最初のものといわれ、本尊は胎蔵大日如来、周りには金剛界の四仏(しぶつ)が取り囲み、16本の柱には堂本印象画伯の筆による十六大菩薩(じゅうろくだいぼさつ)、四隅の壁には密教を伝えた八祖(はっそ)像が描かれ、堂内そのものが立体の曼荼羅(まんだら)として構成されています。
  

壇上伽藍の中の塔で西塔が一番古くから残っている物のようです  
 

西塔に参拝し振り返ると木々の間に大塔が鮮やかに輝いています。
写真を見て右に鐘楼があるのに気附きました。
  


 

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右 御社  ・ 左 山王院


ここまで細かく作られた灯篭珍しいのではと思い!
 


山王院(さんのういん)

山王院は御社の拝殿として建立された、両側面向拝付入母屋造り(りょうがわめんこうはいつきいりもやづくり)の建物で、桁行21.3メートル、梁間7.8メートルあります。山王院とは地主の神を山王として礼拝する場所の意味であり、現在の建物は文禄3年(1594年)に再建されたものです。このお堂では、毎年竪精(りっせい)論議や御最勝講(みさいしょうこう)などの重要行事や問答が行われます。また毎月16日には明神(みょうじん)様への御法楽として、月次門徒・問講の法会が行われています。   


何故鳥居かなと思ったら拝殿でした。 


山王院
この辺りは人も少なく昔を偲ぶことができる場所ではないでしょうか  


御社(みやしろ)

反対側(南側から)
お大師さまが弘仁10年(819年)に山麓の天野社から地主神として勧請し、高野山の鎮守とされました。高野山開創の伝承にもあるように、高野山一帯は元々この丹生(にう)明神の神領であったと伝わります。お大師さまは密教を広めるにあたり、日本の地元の神々によってその教えが尊ばれ守られるとする思想を打ち出され、神仏習合思想の大きな原動力にもなりました。高野山においても修行者らを護り導くとされる四社明神への信仰は大変大切にされています。 社殿は三つあり、一宮は丹生明神、二宮は高野明神、三宮は総社として十二王子・百二十伴神がまつられています。 丹生、高野明神社の構造形式は春日造で、総社は三間社流見世棚造(さんげんしゃながれみせだなづくり)と呼ばれ、どちらも檜皮葺の屋根で仕上げられています。現在の社殿は文禄3年(1594年)の再建で重要文化財に指定されています。  

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六角経蔵

鳥羽法皇の皇后であった美福門院が、鳥羽法皇の菩提を弔うため、紺紙に金泥で浄写された一切経を納めるために建立された経蔵です。 


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  壇上伽藍を一周し中門に戻って来ました
ここも金堂の拝観に多くの人が並んでいます
中 門 (ちゅうもん)

金堂の正面手前の一段低い所に、そびえる五間二階の楼門です。壇上伽藍はかつて天保14年(1843年)の大火により、西塔のみを残して、ことごとく焼き尽くされました。先代の中門もその折に失われ、今日までなかなか再建叶わずにおりましたが、高野山開創1200年を記念して170年ぶりに、この度再建されました。持国天(じこくてん)像・多聞天(たもんてん)像・広目天(こうもくてん)像・増長天(ぞうちょうてん)像の四天王がまつられています。 なお、持国天像と多聞天(毘沙門天)像は二天門であった先の中門に安置されていた像で、類焼をまぬがれてこの度保存修理が完成しました。広目天像・増長天像は現代の大仏師松本明慶師の手により新造されたものです。



金堂前から天像 


門を潜り改めて振り返ると再建されたばかりの真っ新な柱が  

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中門前から東方向  



中門前から西方向

標高900mの所に創建された金剛峯寺、もっと鬱蒼とした山の中を想像していたのですが、予想外でした。やはり奥の院まで行かないと高野山は味わえない  



道路から蓮池   



京都の寺町を歩いている感じでカラー舗装された道を役場の駐車場へ戻りました。  


帰りに高見トンネル付近の桜がまだ綺麗だっので撮ってしまいました





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